etude

 月面基地・特捜司法局――
 ここは、司法官の戻るべき場所であると同時に、次代の特捜司法官候補生が育てられている場所でもある。
 候補生は任官してコードネームが振り当てられるまでは名前がない状態で、とりあえずアルファベットで呼ばれているが、その一点を除けば、並の人間よりも丁寧に教育され、あらゆる事態に対応する能力と司法に関する一切の知識を身につけてゆく。
 人間には到底不可能な運動量
 その運動量をささえる身体能力
 過去の全ての判例をインプットする記憶力
 どのような役割でも演じきる演技力
 その他、各種技能や資格
 勿論「人間」として必要な知識や教養も

 そして、今、第五エリアでは、演技トレーニングが行われている。
 単独行動で、潜入捜査をむねとする特捜司法官には、ありとあらゆるタイプの人格を完璧に演じきるだけの演技力が要求される――彼らは相手が誰であろうとも、どのような状況においても「人間」として不自然な部分があってはいけないのだ。
 もしも、完璧に演じきることができなかったり、どこかしらに不自然さがあって、不審感をもたれたりするようでは、任務の遂行は望めないし、彼ら自身の生命を危うくすることにもなる。
 もっとも、完璧な演技力といっても、商業的な演劇とは違うのだから「マイク乗り」や「滑舌」は関係ない。腹筋や背筋のトレーニングも必要ない――というよりは、それらのものは、すでに身体的トレーニングで充分に培われている。
 つまり、彼らがトレーニングしているのは感情表現である。
「S、感情が乗ってない言葉は、聴いてて気持ち悪いぞ」
 黒髪の少年に対して注意が与えられる。
 Sと呼ばれた少年は、感情を表面に出すのが苦手であるのか、『もっと感情を出すように』との指導を受けることが多い。
 彼は振り当てられた役割において、その人物ならとるであろう行動を一つのミスもなく選択することができたし、その人物なら発するであろう言葉を選び取ることもできたが、その選択された言葉に感情がこもらないのが唯一の欠点であった。
 元々普段から感情をあらわにしないSではある。
 それは、彼と表裏一体の存在として生み出されたJが「男でもあり女でもある」という特異な性格づけをされていることにより、時に感情のふり幅が大きくなりがちなのを補うためであるかとも見えた。
 それでもトレーニングにおいては
「感情を殺すのはかまわない…感情を殺しているという事が伝わるなら、な。だが、自分の中だけに閉じ込めてしまっては駄目だ。私の言っている意味がわかるな?」と言わざるをえない。
「はい。…それよりも、教官、Jのほうを何とかしたほうがいいのではありませんか?」
 教官に向かって冷静な指摘をするSの言葉には、まだ感情が表出していない。
 そのことをもう一度言ったものかどうしたものかと思いながらJのほうを振り向いた教官は大慌てで
「J、感情に引きずられるんじゃない!」と叫んでしまう。
 教官の視線の先で、Jが少年の姿から中年女性の姿へと変わろうとしていた。当人は、自分の姿が変化しつつあることに気付いているのかいないのか定かではない状態で、涙をこぼしている。
(Jに与えた課題は『悲しみ』の表現だったが……)
(感情が出ない奴と感情に振り回される奴か……。足して2で割るってわけにはいかんものかな……)
 心の中で溜息をつきながら教官はJに言う。
「男でもあり女でもあるJには無数の人格ストックがあるのはわかる。だが、演技トレーニングの際には、それらの人物はひとまずしまい込んでおけ。J自身の感情でやらなくちゃ意味がないんだ。たしかに引き出しの中から人格を引っ張りだしてくれば楽だろう。だが、気付いているか?お前はそのたびに自分の姿が不安定なものになっているんだぞ。まずは自分自身の部分でどんな感情でも演じられるようにしておけ。そのうえで引き出しから人格を出してこい。今みたいに感情に引きずられて姿が変化していたら、困ることになるのはJ自身なんだからな」
「はい」
 Jは完全に少年の姿に戻ってグイと目尻を拭った。
「じゃ、とりあえずそういうことで、次のエチュードに進むから……」
 教官は二人に次のエチュード――『喧嘩』の課題を与えたうえで、細かい指示を出しながら思う。
(頼むから、本物の喧嘩にならんでくれよ。お前たち二人が本気で争ったなら、もう誰も止めることはできないんだからな)
 教官の心の中のつぶやきは、戦闘系の実技面においては誰一人として敵うものがいないことを示している。
(あくまでも、これは演技トレーニングのためのエチュードなんだからな)


 数年後、Sが地球系を束ねるSpade-Aceとなり。
 Jが全特捜司法官の頂点にたつJOKERとなる時。
 彼らは完璧な演技力を身につけているのだが、現時点ではまだ能力開発途上の『ヒヨコ』でしかない。