機密保持を命ず(1)


 気温は低下しつつあった。
 最高気温は、連日、摂氏20度を下回っている。
 日本州では、本格的な秋を迎えている。湯気のたつ飲み物や食事、それらを一緒に摂ってくれる人物などが恋しくなる季節である。
 夕暮れのひんやりとした空気を吸い込みながら、日本州警の警部補・六道リィンは、家路をたどっていた。その足取りが少々重い。
 足どりが重くなる理由は、はっきりしている――彼の部屋に飛騨ジェンクスが潜伏しているからだ。
 本来なら月面の特捜司法局にいるはずのジェンクスを彼の部屋に匿うことになってしまったからだ。否応なしに、無理やり匿わされているというのは、気が重い。しかも、ジェンクス自身の言葉によれば、彼こそが「合成人間連続損壊事件の犯人」だというのだから、刑事としての立場では、罪悪感もつのろうというものだ。匿っているのが、恋人だというのならいざ知らず、元上司(同姓で、そのうえ性格的にそりが合うとは言いがたい)では嬉しかろうはずもない。
 だからといって、リィンではジェンクスにお引き取り願うこともできない。彼は有体に言ってジェンクスに勝てないのだ。ジェンクスが怖いのだ。これはなにも今に始まったことではないが、今は、もう一つ別の理由がある。ジェンクスがもっている機密情報――ジョーカーに関する機密情報を教えてもらいたいのだ。
 これらの複雑な思いを抱いてアパートの階段までたどり着いたリィンは、そこにミス・クインシー(大家さん)の姿を見出した。
「とってもおいしいのよ」と話しているミス・クインシーの声がリィンの耳に届く。どうやら、リィンよりもわずかに早く戻ってきた人が大家さんから和菓子を押し付けられようとしている場面に出くわしたらしい。
(助かった…かも。つかまってる人には申し訳ないけど、この隙に脇を通り過ぎてしまおう)
 大家さんが和菓子を薦めるのは彼女の好意のあらわれだということも、お薦めの和菓子が甘党には評判がいいということもリィンは知っている。知ってはいるが、彼自身は甘いものが苦手であり、大家さんの好意を素直にうけていては身がもたないというのもまた事実なのだ。
(ごめんなさい)
 どちらにともなく心の中でつぶやいて脇を過ぎようとしたした瞬間
「六道さん、どうぞ」
 一瞬にして体を入れ替えられてしまったリィンは、ミス・クインシーと正対する羽目になっていた。

六道リィン

 唖然としているうちに、階段を駆け上がる音が聞こえ、続いてドアが開く音と閉じる音が連続していた。
「あら。六道さん……」
 二人は、あまりにも見事な一瞬の早業に驚き、反応できずにいたが、精神的な立ち直りはミス・クインシーのほうが早かった。リィンが、自分も階段を駆け上がろうと足を踏み出すより先に
「おいしい芋羊羹があるのよ」と切り出した。
「また今度、さそってください」
 リィンが婉曲に断ろうとすると
「ところで、六道さん、ペットなんか飼ってないわよね?」といきなり話題が変化した。
「ペット?飼ってないですよ」
 これは事実なので、リィンは胸を張って言える。
「そうよねー。飼ってないわよね…。いえね、階下の人からちょっと気になる話を聞いたものだから。六道さんが出勤したあとも何だか物音が聞こえるようだって言うのよねー」
 ミス・クインシーの言葉に、リィンはその場を去りづらくなる。
 出勤した後の物音については、大いに心当たりがある。それを口にだすことはできないが――。
「居住人員が増えるなら増えるで、その旨、言ってちょうだいね。ここは、居住定員は2名までOKだけど」
 恋人と一緒に住むようになったと一人合点しているらしい口ぶりにリィンは慌てた。
(大家さんの意識を他に向けるには…やっぱり、和菓子、しかないかな)
 他にうまい選択肢を思いつくことができない。
「大家さん、僕、芋羊羹いただきます!いただきたいです!」
 九割がた自棄気分で言う。
 リィンの眼は、ミス・クインシーの手の中には芋羊羹はないことを確認している。これはつまり、芋羊羹はお持ち帰り品ではなく、彼女の部屋で芋羊羹を食べながら、お薦めの(ミス・クインシーの好みの)番組を観るか、一人で観るのが怖いような番組を観るかしない限りは、自分の部屋に戻れないということを意味している。
(それでも大家さんがどのくらいまで状況を把握しているのか確かめておかなくちゃ)
 まさか、部屋にいるのが特捜司法局から逃亡してきた飛騨ジェンクスだ、などとわかるはずもないだろう、と思う。けれど、どこかで姿を見られているかもしれない。現にナイルには姿を見られている。
(室長が特捜司法局がらみの人間だなんてことがバレたら、『特捜司法官』大好き人間の大家さんがどんな反応を示すか、考えるだけで恐い……)
 とにかく、ミス・クインシーのもとにある情報がどの程度のものなのかを確認しないといけない、とリィンは考える。
(それに、居住人員が増えたと思われているのも訂正しなくちゃ。単に友人が泊りがけで遊びに来ているだけだって言うしかないかな)
 実際のところ、ジェンクスは遊びにきているわけではないが、いつまでもいるというわけでもないはずだ(いつまでも居着かれては困る)から、『遊びに来ている』で押し通してしまおうと思う。
 部屋にいるのが誰なのかを明かすことはできないが、恋人だと誤解されたままにしておくのはイヤだ。一緒に暮らし始めたと思われるのは更にイヤだ。
「この季節、熱いお茶に芋羊羹っていいですよね」
 いかにも嬉しそうにリィンは言う。
 唐突だと思われないように――
 情報収集が目的だなどとバレないように――
 精一杯の演技だが、ミス・クインシーのほうは素直に受け止めたようで、相好を崩した。
「六道さんも、なかなか判るようになってきたわね」
「大家さん、ほら、早く行きましょう」
 リィンは立ち話を打ち切るために、ミス・クインシーを促した。

【機密保持を命ず(2)】 に続く

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