ハッ・ハッ・ハッ――
荒い呼吸が耳に響く。
タッ・タッ・タッ・タッ――
靴の音も耳に響く。
それらは、僕とバーリー先輩のものだ。
薬物強化された容疑者を追いかけ始めてから、もう、かなりの時間が過ぎたように思う――ちゃんと時計を見ていたわけじゃないから、確かなことは言えないけど……。
「六道、バテたら承知しないからな……」
ついつい足が鈍りがちになる僕に、バーリー先輩の檄が飛んでくる。
僕達が、その容疑者を見かけたのは、偶然だった。
普段、昼食は、署に配達される定食で済ませているのだけれど、たまたま昨日が給料日で『たまには外で昼飯にしようぜ』という先輩の提案で1ブロック離れたところにあるカフェテラスに出かけた。
天気はいいし、暑くもなければ寒くもなく、穏やかな風が吹くカフェテラスでの食事は、本当にのんびりとしたものだった。
カフェテラスからの帰り道、手配書で見た記憶のある容疑者に出会わなければ、のんびりとした気分はまだ続いているはずだったのだ。あるいは、手配書の写真を記憶していなければ……。
でも、僕たちは気づいてしまった。
やはり、それが、刑事の刑事たるところだろう――僕達が見かけた時、容疑者はかなり容貌が変化していたのだけれど、それでも『間違いない』とわかってしまったのだ。
そこから、僕達の追跡は始まった。
相手も僕たちも徒歩だったから、バーリー先輩と二人で追いかければ取り押さえられるだろうと走り出したのだが、なかなか追いつくことができない。
相手は薬物で肉体を強化しており、それに比例して筋力も持久力もアップしているようで、距離は縮まるどころか逆にじりじりと開いているように感じる。このまま長引けば、逃げ切られてしまうかもしれない。
追跡を始める時点で、署に連絡をして、応援の人と車の手配を依頼したから、もう到着してもいいころだと思うのだが、まだ来ない。
僕達の現在地点はGPSで把握できてるはずなんだけど。
史跡公園のほうに向かってることだってわかってるはずなんだから。
「六道、向こう側に回れ!」
バーリー先輩の意図は『挟みうちにしよう』ということだ。公園に着くまでには取り押さえようと。
ちょうどお昼休みのこの時間帯、公園にはたくさんの人が思い思いの休憩時間を過ごしているはずだ――僕の知る限り、公園から人影が消えるということはない。もし、公園でくつろいでいる人たちに危害が加えられるようなことになってしまったら、あるいは、誰かが人質にとられるようなことになってしまったなら……。
バーリー先輩もそのことを恐れているに違いない。
僕は表通りを走って行く先輩と別れて一すじ内側に入った通りを走る。
史跡公園に向かってなだらかな上り坂になっている道の両側にはイチョウの木が植えられている。秋になれば、黄色く色づいた葉がひらひらと落ちて、恋人たちには人気のある場所になるだろう。
でも、今の僕にはちょっとした上り坂も辛い。
足を運ぶペースも落ちてしまう。
(三年坂だな、この道……)
道路の脇に表示された地名を記憶に刻む。あとで報告書を書く時に必要になるだろう。
(でも、なんだか不思議な名前…なにが3年なんだろう?)
地名だけは聞いたことがあっても、どうしてそんな名前になっているのかわからない。でも、一瞬心に浮かんだ疑問を長く考えることもできない。今はただ、容疑者を捕まえることに集中していなくては。
それに、呼吸が苦しくて、一つの事柄を考えている余裕もない。
その時、目の端に黒い影が動いた。
(仲間がいたのか?)
容疑者を助けようとする人物がいるのなら――
共犯者がいるのなら――
方針を変える必要があるかもしれない。
そうではなく、一般の市民が通りかかったのなら、巻き添えをくわないように注意を促す必要がある。
僕は黒い影が何(あるいは誰)であるのか確かめるために、足は前に向けたまま首だけひねって影のほうを見た。
途端、足の下から地面が消えた。
コンマ1秒もないくらいの短い時間だけ宇宙遊泳の体勢になる。
すぐさま、重力の虜になる。
つまりは、転んだのだ、実に見事に。
(黒い影は?)
上体を起こして影がよぎったほうを見たが、その時にはもう何もなかった。
もし、そこに何かが、あるいは誰かが潜んでいたなら、僕は痛みを感じている暇もなかったかもしれない。けれど、何も見つけることができなかったせいで、自分の状態を観察するゆとりができてしまい、ズボンの膝のところに穴をあけてしまったことと、掌から肘にかけての広い範囲に擦り傷を作っていることに気づく。
(痛い……)
痛いと同時に情けない。
子供の頃は別にして、この十数年間というもの走って転んだなどということはなかったのだが……。
顔を上げた僕の目に小さくバーリー先輩の姿が映った。
どうやら、先輩は表通りから史跡公園のほうに回りこんできて、そこで容疑者をとりおさえたようだ。
(よかった……先輩が捕まえてくれて)
僕が転んでしまって逮捕の役には立たなかったという事実に変化はないけれど、もしも、容疑者に逃げ切られていたなら、傷の痛みだけでは済まないところだった。
(やっぱり、バーリー先輩って、現場の経験が長いだけのことはあるよな)
ようやく到着したパトカー回転灯の赤い光を見ながら、そう感じていた。
【三年坂(2)に続く】
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