夜の三年坂は、静かで明るい。
史跡指定の建造物をライトアップしている光で、坂のあたりまで明るくなっているし、そもそもニュー・トーキョーは、全体として夜も明るい街だ。それでも、公園のもつ雰囲気のせいか落ち着いた明るさに見える。
公園に向かう人の姿も、公園から帰る人の姿もない。
今から公園に行くには少し遅く、帰るにはまだ早いといった微妙な時間帯に僕は来てしまったのかもしれない。
(誰もいないんだな)
なぜだか、自分自身に確認してしまう。
誰もいなければ、どうしようというのか。
大昔の人のようにこの坂で何度もわざと転んでみようというのか。
迷信だと知っていて、なおかつ転んでみようというのか――気にしなければ何でもないことなのに。三年坂の由来を知らなければ気にならないことだったのに。
僕は周囲を見回した。
誰もいない。
誰か通りかかってくれることを望んでいるのか、それとも誰も来ないことを望んでいるのか、それさえもわからなくなる。
部屋を出てくる時から迷っていたけれど、今は更に自分の心がわからない。
僕はもう一度周囲を見渡した。
やはり、誰もいない。
(とりあえず1回だけ)
促す声が僕の中から聞こえる。
わざと転ぶというのも、実際にやるとなると何故か難しいもので(どっちの足から出せばいいんだっけ)とか(昼間けがしたところを打たないようにしなくちゃ)とか考えてしまい、動きがぎこちなくなる。
擦り傷ができている掌をかばうように指先に力を入れ、ゆっくりと転ぶ。転ぶと言うよりも受身を取ったと言うほうが正しいかもしれない。それでも、これだって1回は1回だと思う。
顔をあげて周囲を見回す。
やはり誰もいない。
(よかった)
事情を知らない人がこの場面だけ目撃すれば、僕はただの『変な人』だ。
(この調子なら、もう1回転んでみてもいいかも……)
思いながら立ち上がった僕の目の隅に黒い影が動いた。
昼間と同じ影だと確信する。証拠も何もないけれど、同じ影だと直感が告げる。
ツ――
影が動いた。
昼とは違って僕のほうにやってくる。明確な意思をもって僕のほうにやってくる。
坂の中央に現れたのは、筋肉質で均整の取れた身体を黒いボディスーツに包み込んだ存在だった。
(S-A!)
黒い影の正体はS-Aだった。
やはりこういうことになるのか、と妙に納得している自分がいる。
彼に直接問いただしても答えてもらえやしないだろうけれど、昼間の影もS-Aに違いない。
「ふん、こんなところで転んだりして…何をしているのかな、六道リィン?」
冷ややかな口調でS-Aは言う。
僕は返すべき言葉を見つけられない。
三年坂の言い伝えを話せば、非科学的と片付けられてしまうだろう。僕自身だって、非科学的だと感じていたのだから。
それに、迷信に負けたと思われるのも癪にさわる。
「まさか、言い伝えを本気にしたわけじゃないだろう?」
「――!」
今こそ僕は確信した――メールの送り主もS-Aだと。
強い暗示力をもつように文章を組み立てていたのだと。
そのせいで、僕は自分の意思さえもあやふやになり(それとても元々から意思が弱かったせいだと言われてしまえばそれまでのことだが)フラフラとここまで来てしまったのだと。
発信元を示す『L』の文字に月からだと思い込んでしまったけど、一度、月面基地を経由して送られてきたとすれば、地球上のどこからであろうと、あるいは、宇宙空間からであろうとも『L』の文字を表示することは可能だったのだ。そんな手の込んだことをして、S-Aに何のメリットもないだろうと思いもするのだが……。
返事に窮する僕を見てS-Aは唇の端をわずかにあげる。
シニカルなそれでいてどこか淋しい表情だった。
「迷信を気に病むあたりが六道の六道たるところ…か…」
(こんなふうに僕に意地悪をするのがS-AのS-Aたるところなんだな)
僕は心の中で言い返した。
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それに――
1回転んだところにS-Aが登場してちょうどよかったのかもしれない。もしも誰も来ないまま10回以上転んでみたりしても、僕は結局のところ納得しきれないままだったろう。何となく割り切れない思いが残っただろう。
もっとも、三年坂の由来を知らなければ、何も起きなかったというのも事実ではあるのだが。
それも今は善意に解釈しておこう――転んでから2年あまりも過ぎた頃に由来を知ったならもっと複雑な気分に陥ったかもしれないと。やはり、メールは僕の身を案じるがゆえの警告だったのだと。
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