カミの器(3)

「リィン、よく来てくれました。ボディガードを引き受けてもらえないのじゃないかと思っていました」
 ヨコヅナが僕に手を差し伸べる。
 僕は、自分が手を伸ばしてもいいものかどうか躊躇う。
 さっきのボディガードの態度から察するに、ヨコヅナというのは神聖不可侵で、僕のほうから手を伸ばすなんてとんでもないということになるらしい。今はヨコヅナの方から先に手を差し伸べているわけだし、人払いしてしまったせいで、部屋のドアの前にはボディガードはいるが、部屋の中には二人きりという状況になっている。
(ええい、もう、なるようになれ)
 そんな気持ちで手を差し出した。
 途端、僕の手がぐいと強い力で引き寄せられる。
 それは、本当に強い力だった。
 やはり、身長で20cm以上、体重では、ゆうに100kg以上も違うだけのことはあると感じさせずにはおかないだけの圧倒的な力。鍛え上げられた手は、まるで野球のグローブをつけているかのように肉厚で、驚くほど暖かかった。
 引き寄せられると『びんつけ油』という名の整髪料の甘い馨が僕の鼻をくすぐる。初めてのはずなのになぜか懐かしい感じのする馨だった。遥か遠くの祖先の記憶がそんな感想を抱かせるのかもしれない――が!僕は気づいた、そんな悠長な感想を抱いているような状況じゃないということに!
 引き寄せられたはずみで、僕はヨコヅナの胸の中にすっぽりと抱きとられたかたちになっている。
「あ……すみません」
 あわてて離れようとした僕を更に強い力で抱きしめてくる。
「んふ☆」
 妙な微笑みを浮かべたヨコヅナが僕の目の前に迫る。
 コワイ!
 これは、掛け値なしに恐い!
 次の瞬間、僕は理性を吹き飛ばしていた。
「なにするんですか!やめてください!」
 けれど僕の抗議は空しい。抵抗しようもないほどの力の差を歴然とみせつけて唇が塞がれる。ヨコヅナの唇によって。
(▼☆♂≠∞↓)
 言葉にならない叫びが喉のあたりでつっかかる。
 イヤだ!断じてイヤだ!
 課長は、こうなることを承知のうえで僕を送り込んだのだろうか?!命令には従うというのが警察のルールだけど、こんなことが続くようなら警察だって辞めてやる。
 ヨコヅナは、僕が心の中で拳を握り締めていることなど知らないだろう。
「イヤだ!」
 ようやく声が出た。
「リィン?」
 僕の前に迫っていた顔が少し歪んで哀しみを形作る。
「私のこと、嫌いになりました?」
 そこにあった顔がほっそりとしたものに変わり、それにつれて体つきも変化する――きっちりと筋肉はついているけれど、とても均整のとれた男ジョーカーへと。びんつけ油で大銀杏に結った髪は自毛だったらしくてそのままだけれど、まぎれもないジョーカーの姿になっていた。
「★※♪◎☆!」
 まるで失語症になってしまったみたいに言葉も出せずに目を見開くばかりの僕にジョーカーはにっこり笑いかけるともう一度唇を重ねてきた。
 当然、今度の僕は抵抗などしない。互いの想いを伝え合うように互いの心をからめとるようにキスをする。
(よかった、ジョーカーだったんだ)
 ジョーカーは自分がどんな人間にも変身できるせいで、外見に重きをおかない。どのような姿であろうともその本質にかわりがなければ、それ以外のものは大した意味をもたないと考えている。でも、僕はやっぱり外見も重要なその人の一部だと考えてしまう。「ツラの皮一枚」と言われようと、それもその人を形作っているものであるからには大切にしたい。
「どのような姿であろうと私は私ですよ」
 少しいたずらっぽい眸をしてジョーカーが言う。
「そ、それはそうだけど……」
 一瞬安堵した僕だけれど、すぐに思い当たる、伊達や酔狂でジョーカーがこんなところにいるはずがないと。
「ジョーカー、これって任務…だよね?」
「はい!」
(ああ、やっぱり……)
 任務以外の理由などあるはずないとわかってはいる。協力が必要だからこそ僕を指名したのだということもわかってはいる。
「なぜ、と訊いても答えてはもらえない……よね」
 ジョーカーの任務について、僕には質問する権利などありはしない。それはよくわかっている。それでも、まったくなにも知らないまま割り当てられた役割を果たしているよりは、少しでもわかったうえで役割をこなしているほうが何か起こった時にジョーカーを守ることができるのではないかと思ってしまう。
「……」
 ジョーカーは、少しの間考えていたが
「全てを話すというわけにはいかないけれど」と前置きしてから説明を始めた。
 それによれば――
 臓器移植用のさまざまな臓器を養殖しようという動きがあるのだという。現在、ヒトゲノムを素材としない人工臓器の製造は許可されているが、細胞を養殖して臓器を作ることは禁じられている。20世紀の末に人間のクローンは禁止すべきだという論議が高まり、続いて臓器の養殖が禁じられた。
 当時、それは罰則規定をもたない――つまりは法的強制力をもたないものではあったが、人間の倫理観に訴えるには充分だったらしく、現在に至るまで禁じられている。
 それに、この2世紀の間には科学も進歩し、合成の臓器も本物の臓器と比較してもほとんど遜色ないと言えるまでになっている。拒絶反応については、合成臓器のほうが少ないのだ。
 それでも、いや、だからこそなのかもしれないが『天然もの』のほうが『合成もの』よりも優れていると考える人々が存在しているというのもまた事実であるのだ。そうした考えに取り付かれてしまった人々は、それが非合法のものであったとしても、そして、それを手に入れるためにどのような犠牲を払おうとも、天然ものが欲しいと思いつめてしまうのだ。
「で…強靭な肉体をもった人の組織細胞なら通常の人間の細胞よりもずっと強靭に違いないと考えてしまうのです。強靭な細胞から強靭な臓器が養殖できるに違いないと……。養殖という時点ですでに天然ものではないというのは、どこかにいってしまったようですね。あるいは、合成でなければいいと考えるか」
「それで、カミの器と呼ばれるヨコヅナの細胞を狙っているというわけ?」
 僕の質問にジョーカーがうなずいた。
「どうやら大掛かりな組織が絡んでいるようですし」
 ヨコヅナの保護と組織の解明、その二つの目的のためにジョーカーが送り込まれてきたのだ。
「わかった、協力するよ」
「リィン……」
 僕達はまた唇を重ねた。

 その時――
 ドアのところで激しいノックの音がしたかと思うと、ガードマンがマスターキィを使って部屋になだれこんできた。
 人間国宝であるヨコヅナの身に何か異変があっては一大事とばかりに飛び込んできたのだ。
 瞬間、ジョーカーはヨコヅナの姿に戻っていた。僕を腕の中に抱きしめた状態のままで。
 一気に100キロ以上も体重が増えた姿になったジョーカーに抱きしめられたままの僕は、足が宙に浮き、出っ張ったお腹の上に吊り上げられている。
(ジョーカー!)
 どうにかして下に降ろしてもらおうと、もがくけれど、ジョーカーのほうもヨコヅナの姿に戻ることのほうを優先してしまっているせいで、僕のほうは後回しになっている。
 それに、ヨコヅナに変身してしまったジョーカーに対しては名前で呼びかけることもできない。
 いきなりガードマンに飛び込んでこられた僕達もびっくりしたけれど、ヨコヅナのラブシーンを目撃する(しかも相手は男だ)とは予想だにしていなかったであろうガードマンの驚きもかなりのものだっただろう。
 誰も声を出すことさえできない。
 凍りついたような時間のあとで
「あ〜、六道ってば、やっぱりホモ〜!」
 バーリー先輩の裏返った声が聞こえた。
 僕はもう、何を説明する気力もなく(納得してもらえるような説明ができるはずもなく)ぐったりとジョーカーに抱き上げられたままになっていた。

【END】

back indexへ