χへの序曲〜定めの螺旋〜(3)


「おはようございます」
 明るい声とともにユリアがスタジオに現われた。
 うしろにマネージャーが続く。
「ねぇ、ニュース、見た?」
 メイク室に入るなりユリアに声が掛けられた。
 『ニュース』というのは例の事件のことを指しているのだろう。何のニュースかは言わなくてもわかるだろうといった様子だった。
「はい、もう、びっくりしました」
 ユリアは小さく首をかしげながら答えた。何に対してびっくりしたのかについては言わない。相手がニュースの何について聞きたいと考えているのかつかみかねたのだ。
 自分のマンションの近くで事件が起きたことをどう思うか尋ねたいの
か。それとも自分にそっくりな人が事件に巻き込まれたことに対する感想を言えばいいのか。あるいはユリアの帰宅時間とほぼ同時であることから狙われたのはユリアだったかもしれないと言いたいのか。
 だが、声を掛けたほうはそれほど深い考えがあったわけではないらしく、ユリアの曖昧な答えで満足したようだった。
「びっくりするわよねぇ」
「ほんと、こわいわね」
 かみ合っているんだか、いないんだか、それぞれが何に対してびっくりしたのかを明確にしないまま会話が進む。
(こんなふうに何一つとして明確にしないままでも会話が成り立つっていうのが人間の不思議なところでもあるわ)
 こっそりと心のなかで囁いていることなど誰も知らない。
「そろそろリハ始めます。スタンバイお願いします」
 アシスタント・ディレクターがメイク室や控え室に声をかけて回り始めた。今日の撮影がスタートしようとしている。

「ライト、もう少し右に寄せて。テカっちゃうから」
「ブルー掛けますか?」
「天カメ、ゆっくりとズームして」
「これじゃイメージに合わないよ。やっぱり蓮の葉のほうがいいな。ひとっぱしり行って買ってきて」

 出演者が台本を手に料白の確認をしていたり、乱闘シーンの打ち合わせをしている横で、フードコーディネーターが番組のなかで使う料理の仕上げをしている。かと思えば、セットの手直しをしている騒音のなかで眠りこけている役者がいたりもする。
 言い付けられたものを買いに出て行く人、共演する(?)動物を連れてやってきたトレーナー、それらの人々の間を縫うように動き回る撮彫スタッフ……。
 さまざまな人が、てんでバラバラに好き勝手なことをして動いているように見えていたが、『本番』の声が掛かった瞬間に空気が引き締まった。同じ一つのものを創るという連帯感が一本の糸のような働きをするのか、ヒロタの指揮のもと全体が一つのものであるかのように動き始めていた。
(ようやく調子が出てきたってことだな)
 ヒロタはこれでようやく撮影も軌道に乗るだろうと感じていた。
 フォースシーズンが始まった当初のような、ぎこちなさがなくなってきている。スタッフが彼の意を汲んで自分の手足のように動いてくれてこそ、撮彫は順調に進むのだし、それでこそ出演者も自分たちの演技に集中できるというものだ。
 もちろん、どのような状況でも集中力を発揮するのがプロというものだが、ともすれば集中をとぎれさせてしまうのも人間である。 そして、こういう撮影現場では、集中がとぎれた時に思わぬ事故が起こったりするものなのだ。
(ユリアも、どこがどうというわけではないが、何かが変わったみたいだ……)
 ヒロタは、漠然とそう感じていた。
(この世界に慣れてきたってことかな)
「このところ撮影順調っすね」
「スケジュールどおりだもんな」
 やはりスタッフの誰もが同じ事を考えているようで、ヒロタが心のなかでつぶやいたことを言葉にした人間がいた。          

*         *         *

 フォースシーズンが六か月日を迎えようとする頃、仰天することが起こった。
 ユリアが引退を一発表したのである。
 七万五千人のなかから選ばれたシンデレラ・ガールだというのに。
 誰もが夢み、羨むようなスタートを切ったばかりだというのに。
 これから大きく花開こうとする矢先だったというのに。
 求めて、求めて、それでも手に入れられないものを――努力しても、努力しても、その努力だけでは追い付かないものを――ユリアはいとも簡単に手放してしまったのだ。
『引退する』ということだけしか明かさずに。
 なぜ引退を決意したのか。
 すぐに引退するつもりならどうしてオーディションに臨んだのか。
 こんなふうに引退してしまうのは無責任すぎるのではないか。

 さまざまな声があがっていたが、それに対する解答はどこからも与えられなかった。
 世間一般ではユリアの引退を騒ぎ立てているだけですんだが、番組スタッフにとっては問題は更に深刻だった。
 すでにできあがっているシナリオを書き換えているだけの時間の余裕はない。
 撮影をストップするわけにはいかない。
 代役をたてるにしても、今日明日のうちに役にあった人選ができるのか。
 番組自体がゴタゴタしているとスポンサーにも悪影響を及ぼしかねない。
 とにかく一分でも一秒でも早く対応策をたてて乗り切るしかない。

 撮影現場がパニックに近い状況に陥っている頃、食い下がる記者たちをどうにか振り切ったユリアが、六道リィンのもとに現われていた。
 今はもうユリアに変身している理由もなくなって、本来の姿――これが真に本来の姿かどうかは置くとして――リィンにとっての本来の姿・女ジョーカーの姿で。
「ジョーカー、訪ねてきてくれて嬉しいよ」
 リィンは、心のそこからしあわせそうな表情になった。
「記者会見は大変だっただろ?」
 いたわりの言葉にジョーカーはにっこりと微笑んだ。
(好き……あなたに恋して……よかった)
「今日は、ゆっくりしていけるの?」
 リインがジョーカーの顔を覗き込むようにして尋ねる。
「はい、今日だけは……」
(今日だけは何も言わずにいよう。今だけは、このひとときだけはリィンの恋人でいよう。明日には別れを告げるにしても……)
 ジョーカーはもう一度にっこりと徹笑むとリィンの唇に自分のほうから唇を重ねた。
 事件については二人とも言葉に出さない。
 ジョーカーは今回の任務に関しては、ヒントになりうることさえも言わなかったし、リィンも尋ねなかった。まるで言葉にすることを恐れているかのように。
 一切の真実はジョーカーの胸のなかにしまい込まれている。
 ユリアの出生地が木星エリア開拓団になっていたということも――
 ユリアが男二人の遺伝子を受け継いだ存在だったということも――
 六道リィンはまだ気付いていない。
 これがのちに『χの歌声事件』と呼ばれることになる大きな犯罪の第一幕だということに。
 ジョーカーから別れを切り出される時が訪れることも。

【END】

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