旧き城から

 
 あてがわれた質素な部屋で一夜を過ごした次の朝
「かあさまは、ご用があります。あなたはここで待っていられますね」
 母はもうすぐ6歳の誕生日を迎える息子に話しかけた。
「はい。お仕事?」
 クラヴィスはアメジストの瞳で母親を見つめた。あどけない瞳の奥に理知の輝きが沈んでいた。
 彼は何のために母親が呼ばれたのか、きちんと理解していた、これまで学校で教育を受けたことはないが、母親と二人、旅から旅への生活のなかで、この年齢の子供に必要な知識は身につけていた――いや、むしろ普通の子供以上のものを身につけていた。
「ちゃんと、この部屋で待ってる。他の場所を見に行ったりはしないから」
 彼はすでに、流浪の民をよく思わぬ人間のいること・何かなくし物があれば流浪の民の所為にする人間がいることなどを経験から知っていた――誰が教えたわけでもなく。
「いい子にしていてね。すぐに戻ってきますから」
 そう言うと、母親は水晶球を手にして部屋を出て行った。

*     *     *

 あと数日で城の主になると同時に領主の座を約束された青年が花嫁になる少女と並んで座っている。二人の後ろには世話係であるらしい人物が控えている。現領主は姿を見せていなかった。
 人々の様子が、未来の託宣を聞くという神妙さよりも、あらかじめ約束された『慶祝の言葉』を待っているようだと感じたのは、気のせいだけではあるまい。領主の歓心を買うためには、めでたい事柄だけしか言わないはずだと勝手に納得していたに違いない。
 ともあれ、人々の思惑がどうであろうとも、行なうことは一つしかない、そしてその結果が居並ぶ人間にとって期待に沿うものであろうとなかろうと真実を告げるだけのことである。水晶球の告げるものを歪めることはできない。
 ゆっくりと水晶球に手をかざした。
(――!)
 水晶は何も映し出さなかった。
(なぜ?なぜ何も映さないの?)
(未来が見えないなんて……)
 彼女は幼い頃から水晶球に未来を映し出してきた。わずかな念でくっきりと映せることもあったし、強く念じなくてはならないこともあった。過去にも幾度かの好不調はあったが、何も映らないという経験はなかった。
(未来がない?)
 それは恐ろしい考えだった。
(結婚式の日のことは?)
 漠然とした未来ではなく、きわめて隣接した未来を映してみようとした。それでも結果は同じことだった。水晶球にはなにも浮かび上がってこない。
(未来がない!)
 何も映らない――そこから導き出せるのは二つの事柄だ。一つは、眼前にいる人たちの未来は閉ざされており、結婚式を迎えることさえできはしないということ。もう一つは、未来は可変性のものであり、このあとの行動によってどのようにでも変わりうるがゆえに映し出すことができない場合だ。
「結果はどうかな?」
 未来を告げないことに対して不審をいだいたらしい。もったいぶらずにさっさと言えばいいのに、という空気になっていた。
「……」
 たとえ良くない未来でも見えたなら、率直に告げただろう。そしてどうすれば災厄を軽くできるのか教えもしたろう。だが、告げるべき未来がないのだ。
「申し訳ございません。私のちから及ばず、見ること叶いませんでした」
 ようやくそれだけ告げると座を立った。

「かあさま、どうしたの?」
 クラヴィスは戻ってきた母親の顔が蒼白なのに驚いた。
 たしかに占は精神力を必要とする。けれど彼の母は高い能力をもっており、未来を視るのは、その他の頼まれごとよりも楽にこなせる事柄のはずだった。たとえば特別な香を用いなくてはならない頼まれごとよりも簡単なことのはずだった。
「かあさま……」
 部屋に戻るなりへたりこんでしまった母親の首に柔らかな腕を巻きつける。
「クラヴィス」
 母親は彼を強く抱きしめた。
 その瞬間――
 ――ズ…ン
 名状しがたい恐怖がクラヴィスの胸の底に落ちた。
「こわい!こわいよ!」
「大丈夫、何も怖いものはないわ。それに、かあさまがついていますからね」
 やさしく諭されても――
 髪をなでられても――
 懸命にしがみついても――
 きつく抱きしめられても――
 クラヴィスの恐怖は去らない。
 何が怖いのか、なぜ怖いのか、言い表すことはできない。怖いと感じる、そのことが怖いのかもしれない。
(あぁ、この子も感じ取ってしまった。私の恐怖が伝わってしまった。怖いおもいなどさせたくないのに……)
「クラヴィス…]
 自分の視た『何もない未来』が現実のものになるとは思いたくない。
 だが、自分の占がはずれるとも思えない。それは自惚れでもなければ高慢でもない。
(なにがあっても、この子は)
(かあさまの命にかえてもあなたは……)
 腕の中で頼りなげに肩を震わせている愛し子を守るためならどんなこともできる。してみせる。強く心に誓った。
「壊れる!空が落ちてくる!」
 クラヴィスの震えはいっそう大きくなった。
 この時、彼は視た。上下左右が反転してしまったような情景を。
 それは、クラヴィスの中に封じられていた能力が覚醒を始める瞬間でもあった――当人は、それとは気づいてはいなかったけれど。
 ――トレーラーハウスに揺られている時も、野原を散歩する時も、ピクニックに出かける時にも常に彼らを支えていたはずの大地がドロドロと溶け崩れてゆく。踏みしめるべき足場を失った動物が哀しい悲鳴とともに泥の中に生きたまま葬られる。つい今しがたまでは暖かいまどろみを約束していた家が人間を抱きこんでつぶれてゆく。家具や調度品が一瞬のうちに凶器へとかわり、生き物を穿つ。水浴びをしたり魚を獲ったりした川が渦を巻いて上流へと駆けのぼる。川上から流れてきた水は逆巻く濁流と一つになって岸辺を呑みこみ、大きな岩を押し流す。何百年もの年輪を刻む巨木が根っこをひきちぎられて倒れる。燃料の輸送ラインからも焔がふきだす。消火活動は行なわれない――行なえない、誰も立っていることができないせいで。誰もたどり着くことができないせいで。空は黄色とも灰色ともつかない色に濁っている――
 それらの幻が一瞬のうちにクラヴィスの胸に流れ込んだ。
 人々の恐怖も怨嗟も慟哭も。
 動物や植物のおののきも憤りも。
 視と破滅とが現実となってクラヴィスを襲った――襲ったように感じた。
(あなたは…クラヴィス、あなたは視てしまったの?破滅の相を。壊れゆく未来を。かあさまが見たのは虚無だったけれど…)
(どんなにか恐ろしいでしょう。どんなにか……)
「クラヴィス、ゆっくりと目を開けて…ほら、何も壊れてはいないでしょう?大丈夫、何も起こってはいないのよ。かあさまもちゃんとここに…ね」
 母親は自分の言葉が欺瞞だと知っている。誰よりもよく知っている。それでもクラヴィスを安心させてやりたかった。息子の心に流れ込んできたのは決して現実のものではないのだと言ってやりたかった。
 あとわずかのうちには現実のものになるのが確定しているとしても、その時がくるまでには息子を安全な場所に逃がしてやることも可能だろう。客は乗せない決まりになっている貨物シャトルでも、よくよく頼み込めば小さな子供の一人くらいは目をつぶってくれるかもしれない。さっきの占では若い二人の未来を視たが、惑星全体の未来を視たわけではないから、どこか別の街に行けばみんな助かるかもしれない。惑星全体の変動が避けられないにしても、その変動がまず最初に領主の城を中心として始まり徐々に周辺部へと波及していくようなものであったなら、激烈な変化にみまわれる城が壊滅するのはどうしようもないが、それ以外の地域の人には安全な場所に移り住む時間があるだろう。もし、人々が彼女の言葉を信じて、直ちに城を放棄するなら(家財にも収集物にも未練を残さずに)己の身一つを守って逃げる勇気があるなら、犠牲者をだすことはないかもしれない。
 だが、同時に彼女は知っている。権勢や対面を重んじる人々が彼女の指示には従うまいということも。
 占を依頼し、災厄を避ける方法を相談し、時には死者の魂を呼び出すことさえ願うのは、彼女が部外者だからだ。近親の者には言えないことも流れゆく民が相手なら話すことができる。いつまでも同じ土地に留まっていないのだから。すぐにどこかへ行ってしまうのだから。占ってもらった事柄について、あるいは相談した事柄について知り合いに話される心配がないと感じているから。占をなりわいとする者はそれが流浪の民であろうとなかろうと、知りえた秘密をもらすことなどありはしないのだが、人は部外者ゆえの安心感をもって彼女の許を訪れる。
 それ故に部外者が自分たちの生活に踏み込んでなにか指示をしようとするならば、猛烈な反感をみせる。殊に命令をくだすことを自分の当然の権利と考えているような人間は、他人に命じられて動くことなどできはしない。たとえそれが命にかかわることだとしても、まだ現実のものになっていない間は諾うことができないのだ。そして、実際に災厄がもたらされてしまうと自分の行動や言葉を棚上げにして、責任をなすりつけようとする輩も多いのだ。
(とにかくこの惑星全体について占ってみなくては……)
 水晶に手をかざそうとした時にクラヴィスが
「よそに行こう、ねえ、かあさま、よそに行こう」
 小さくつぶやいた。
「よそに行けば大丈夫だと感じるの?」
 母親の問いかけにしばらくは無言だった。
 クラヴィスは心のアンテナのようなものを伸ばして周囲のものから情報を受け取ろうとしていると母親は感じ取った。並の人間にはもつことのできない、けれど間違いなくこの世に存在している力がクラヴィスの中で広がったと感じた。どうしてそう感じるのかと問われても答えることはできない。クラヴィスと自分とを繋ぐものがあるからこそ目には見えねども、耳には聞こえねども伝わってくる。
「う〜んとね、最初は他の町でもいいの。でも、すぐによその星に行こう」
 惑星が一瞬にして蒸発してしまうとか爆発するとかいう危険性はないらしい。巨大な流星群によって惑星の形が変わってしまうというわけでもないらしい。ともあれ、人々が急ぎさえすれば最悪の事態は免れることができるとクラヴィスは感じているのだ。

【旧き城から 2】に続く

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