士道不覚悟(2)

 完全舗装された道路を靴を履いて歩くことに慣れている僕には、土の道を歩くというのはとても珍しい経験だ。
 信じられるだろうか!土の道というのは、歩くたびに小さく埃がたつのだ!道の脇には雑草が生えている。プランターに植えられたのではなく、道に直接生えている草。規則正しさとは無縁だが、そのぶん生命力にあふれれいる。人に見せるためのものではない小さな・小さな花が咲いている。これが自然というものなのだ!22世紀に生きる僕たちが自然だと信じていたものがいかにインチキで人工的に作り出されたものであるのかということを僕は初めて知った。
 整然と植えられた街路樹――
 人工交配で殖やされた鮮やかな色彩の小鳥――
 電照によって開花時期を調整された観賞用の花――
 それらのものは、見せ掛けの自然でしかなかったのだ。
(あぁ、僕は、これまでいかに知らないことばかりだったのだろう)
 自分が無知であったことを思い知らされた。
 だが、無知であることを知るのは、ちっとも不快ではなかった。何も知らないのなら、これから1つずつ覚えていけばいいのだと思うことができた。
 僕は道端にしゃがみ込んで草を眺めてみた。ひしゃげたような形の葉っぱには土埃がついていた。人が道を通るたびに埃を巻き上げるせいなんだろうけれど、それにも負けずにひたすらに生きているのだ。
 葉っぱを一枚ちぎると青臭いにおいがした。
(これが本当の植物のにおいなんだ)
 僕は自然に酔ったような気分になっていた。
 こんなところを土方さんに見られたら、また、どやしつけられるだろうけれど、新しい発見や、はじめての経験に感動しないようじゃ人間じゃない、と思う。
 何を見ても珍しく、大地を踏みしめる一歩一歩が嬉しくてウキウキと歩いていた僕は、周囲の人の目には、さぞかし可笑しなものに映ったことだろう。
 泣く子も黙ると言われる新撰組の隊員が嬉しそうに歩いている図なんて想像できない事柄に違いない。人々は道を通るにも僕の周りに近づかないようにしていた。
 今になってはじめて気付いたんだけど、道を行き交う人達はみな背が高くない。
 大多数の人がそうなのだから、僕はこの時代ではとびぬけて背が高いということになるのだろう。
 なんだか変な気分。
 そうでなくても目立ってしまうのだから、あちこち見回しながら歩いていては、他の人からはさぞ可笑しなものに見えるだろう。
 気をつけなくてはいけないと思う。
 だが、そう思ったあとから、ハーネスをつけないで勝手気ままに歩いている犬だとか、赤いよだれかけを掛けたお地蔵さんや小さな祠だのが現れて、僕の興味をひく。
 そんな時、ふと道端にしゃがみこんでいる人がいることに気付いた。
 鹿の子絞りの着物に桃割れの髪――それは若い娘にだけゆるされたものだった。
 なぜ、そんな言葉を知っているのかなんて詮索してみてもはじまらない。
 目にした瞬間にそれらの言葉は、当然のように僕の中に沸きあがってきたのだから。
 沖田総司として生きることを運命付けられた僕が知っているのは、ある意味、極めて当然のことなのだろう。
 その娘は、どこか痛めでもしたのか、顔色が青白くなっていた。額には汗が浮かんでいる。
「大丈夫ですか?」
 京の町で新撰組がどんな目で見られているのか、知らないわけではなかったが、僕は声をかけた。
 困っている人を見て、知らんふりしていることのほうが失礼だという気もした。
「急におなかが痛うなって」
 それだけ言うのも辛そうだった。
「お家はどこですか?よければお送りしますよ」
「……」
 返事がない。
(僕のことも人斬り集団の一人として見てるんだ)
 チクリと心が痛んだ。
(新撰組の面々、近藤さんを筆頭に土方さん、芹沢さん、原田さん、斎藤さん……皆それぞれ沢山の人を斬ることになるけれど、斬ることを楽しんでいた人なんて誰一人としていないはずだ。彼らは、彼らなりに激動の時代を精一杯に生き、先のことなど何もわからないままに幕府のために、よかれと信じて戦い続けただけなのに……)
 この思いは、たしかに後の時代に生まれた僕だからこそ抱きうる考えかただけれど、それでもやはり寂しかった。

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