χへの序曲〜定めの螺旋〜 (1)



 1993年7月・ある1つの画期的な――後の時代に大きな影響を及ぽすことになるバイオテクノロジーの研究結果が発表された。
 それは――♂×♂で子供が生まれる――というものだったのだが、発表当時、その研究はさして高い評価を受けなかった。マスコミも夕刊の三面記事として冷やかし半分に扱っただけで、追跡取材の記事が紙面を飾ることはなかった。
 しかしながらこれは、もっと真剣に考えるべき事柄をはらんでいたのだ。
 当時、魚類に関しては、♀×♀で子孫を作るという研究は実用段暗にはいっていたので、♂×♂というのもさして画期的だとは思われなかったのだろうが、そして単性で子孫を殖やすという点において、同じような性質のものだと考えられたのだろうが、この二つの間には大変な違いがあったのだ。
 ♀×♀では生まれてくる子供は全て♀にしかならないのに対して、♂×♂では雌雄どちらも生み出すことができる。つまり、種の保存には精子さえあればよいということになるのだ。
 この研究を発表したドクター小野里は、『哺乳動物は技術的に難しいが、原理的には、人間でも男二人の通伝子を受け継ぐ子供が可能だ』と述べている。それはつまり研究を重ねていけば、いつかは技術を確立し得るということなのである。

 1997年、クローン羊やクローン猿が発表されるに至って、クローン技術を人間に応用すべきではないという議論が高まったが、この時も♂×♂の問題は忘れ去られていた。

『特捜司法官S−A』オーディション会場――ANTVの第2スタジオ前に立てられた看板にはそう書かれてある。
 ANTVの誇る超人気番組『特捜司法官S−A』が、フオースシーズンとして新シリーズを開始するに当たって、新人女優を一人起用することになった。
 それに対して、七万五千人余りの応募があった。それも一般からの公募ではなく、それぞれどこかのプロダクションに所属している女優の卵だけで、その数にのぼったのだ。おそらくそれぞれのプロダクションが、条件にあう人間はみな応募させたのではないか、と思いたくなるほどの数だった。
 つまり『特捜司法官S−A』という番組は、それほどに高い視聴率と番組ステータスをもっているのである。
 その七万五千人は、書類審査・音声チェック・演技テスト・カメラテストを経て百人ほどに絞り込まれている。
 そしていよいよ、最終オーディションの日を迎えた。
 百人に絞り込むまでの間は、助監督の指揮のもと、スタッフがオーディションに携わってきたが、最終日の今日は、監督のヒロタ、チーフ・プロデューサーの津田、脚本家の槙屋フユコ、主演俳優の秋津秀、そして制作部長の和田の五名が審査員席についている。
 受付番号順に「明日のスター」を夢見る少女が五名の前に呼び出され、簡単な質問を受けたり、特技を披露したり、各々自分をアピールするという手筈になっているのだが、七万五千人のなかから絞り込まれただけのことはあって、甲乙つけ難いというのが現実である。
 そして、女優の卵たちには何も知らされてはいないが、本当の審査は彼らの前でのみ行なわれているわけではない。控室の様子を隠しカメラでモニターし、その様子と審査員の前に臨んだ態度とを比較しているのである。
 審査員の前では清純そうに振る舞っているものの、控室での態度には首をかしげざるをえない子がいる。錚々たるメンバーを前にして畏縮してしまった子が、控室ではおおらかな姿を見せているたりもする。ごく稀に、態度の変わらない子もいる。
 少女たちの様子をチェックしながら津田は秋津のほうをちらりと見た。
(芸能界は人間を変えてしまうこともあるものだが……)
 これまでに津田はプロデューサーとして沢山の芸能人と関わってきた。
 デビュー前から知っている人が、スターの階段を昇って行く過程で人間性を失って行くのを見たこともある。画面のなかでは「暖かさ」をウリにしていながら、カメラフレームから外れた瞬間、マネージャーに辛く当たる姿を見たこともある。スターと呼ばれ、その背に負うものが多くなればなるほど、一般の人々との間に越えられない溝や高い塀ができてしまう。
 そのこと自体はスターと呼ばれる人の貴任ではないが、だからといって何をしても許されるのだと勘違いしたり、負うたものの重みでつぶれて行くような人間では困る、と津田は考える。
(しかし、秋津は変わらない。いや、たしかに不安定な時期もあったが、今は、前にも増して『いい男』になった)と思う。
(なぜ、こんなふうに人間として成長することができたのだろう?ここにオーディションを受けに来ている子たちの中にも、女優という職業を選ぶことによって「人間」として成長してくれる子がいるのだろうか?)
 津田は、演技や容姿よりも、人間として優れている子を選ぶべきだと考え、もう1度秋津のほうに視線を走らせた。
 その秋津は、手元に配られた資料と眼前のスター候補生を見比べているらしい。フユコやヒロタもそれぞれ己の信ずるところに従って採点している様子が目に映った。
「以上で全員のアピールは終わりました。審査結果は、おって書面で通知いたします」
 進行係がオーディションの終了を告げた。
 控室から少女たちが出て行く。
 その時の様子もまた、カメラはとらえていた。一緒にオーディションを受けた人にもスタッフににもまんべんなく挨拶をして控室を出る者、スタッフには挨拶しても自分以外は皆ライバルという意識を隠そうともしない者、審査員でも何でもないスタッフにまで愛想を振り撒く必要などないといった態度で控室をあとにする者……。
「さて……」
 津田は審査員に声をかけ、それぞれの評価を突き合わせた。
 この時点では、誰を選んでも反対意見が飛び交いそうなほどに評価が分かれていた。
 男の『眼』と女の『眼』とでは、こんなにも評価が分かれるのか、と驚くような結果がテーブルに並べられている。視点が違えば評価も違うのが、面白いとも言えるし、不思議だとも言える。
 制作部長の和田とフユコでは、まったく視点が違うようで、和田から高い評価を受けている子が、フユコにかかると、下から数えたほうが早いくらいの位置に置かれている。逆に、フユコから高い評価を得ている子が、和田の採点では辛い点を付けられている。
 そんななかから、最大公約数的な子を選び出さなくてはならない。男の視点にも女の視点にも偏らず、誰からも好意を寄せてもらえそうな、それでいて輝く「何か」を持っている子を――視聴者は、老若男女を問わず、全ての人をターゲットにしているのだから。

*     *     *

「この子でいきますか」
「まず妥当なところでしょうね」
 こうして、一人の少女が選出された。
 名をユリア・L・クラウディアという。緩いウェーブのかかったハチミツ色の髪、神秘的な印象を漂わせた切れ長の瞳。
 伏し目がちに部屋に入って来た時には、さほどでもなかったが、審査員の質問に答えるために眸をあげた瞬間、ヒロタは『いい眸だ』と感じた。
 その眸以外に強烈な個性を持っているわけではないが、そのぶん誰にでも受け入れられるだろう。
「セリフはなくても眸で演技できるタイプじゃないかな」
 新人だということもあって、当面はセミレギュラーである。
 セリフも多くは予定されていないが、一言で場をさらうような役柄だから、放映が始まれば人気が出るだろうと予想できる。
 

【χへの序曲〜定めの螺旋〜(2)へ続く】

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