χへの序曲〜定めの螺旋〜(2)



 撮影が始まった。だが、快調に、というわけにはいかなかった。
 快調ではない理由はいくつか考えられる。
 まず第一は天候に恵まれないということだ。このところ異常気象続きでロケ・スケジュールが狂いがちになっている。スタジオ撮影に切り替えられる時はまだいいが、どうしてもロケでなくてはならない場面も多いし、ストーリーの関係上、必要な風景もあるのだ。晴れた日に雨のシーンを撮影するのは簡単だが、雨の日に晴れたシーンを撮乾するのは不可能だ。せめて曇りのシーンに置き換えてもいいなら、雨の線が写らないような位置どりでカメラワークを工夫し、雨音は消してしまえばいいのだが、人物のうしろに青空が広がるようなシーンや夕焼けの場面など天を仰いで祈るしかない。もちろん、CG合成で天候を演出することは可能だが、ヒロタはそういうやり方を好まない。
 第二には、前作のサードシーズンと今回のフォースシーズンとの間に六か月のブランクがあったために、スタッフの一部が入れ替わってしまっているということだ。これまでなら阿吽の呼吸でできたことが、一つ一つ打ち合わせしなくてはならなかったりする。大半のスタッフは戻ってきているが、全員が揃っているわけではない。それぞれ手慣れた手順や、やり方のなかに、テンポの違う人間がいると、一回一回の違いは僅かなものであっても、全体としてロスを生むことになる。
 そして何より大きな原因は、新人のユリアに関するものだった。
 彼女はこれまで養成所でレッスンを積んでいたのだが、撮影現場に出るのは初めてだった。
 スタジオというものがどういうところであるかというのは、よくわかっていたし、撮影についての知識ももちあわせている。しかしながら、知識として知っているというのは、本当にわかっているということではない。
 ユリアは現場で注意されること、教えられることはすぐにのみ込んで、身に付けてゆくタイプで、同じ事柄を二度重ねて注意されるということはなかったが、その分、神経を張り詰めてもいたことだろう。
 それほどに一生懸命頑張っても、すでにある程度固まっているメンバーのなかに入っていくというのは容易なことではなかったのだ。別段、レギュラーメンバーが意地悪をするなどということはなかったけれど。
 それと同時にユリアの周囲ではちょっとした事故が続いていた。
 それは、レフ板を持って走っていたスタッフが、石につまずいて転んだために撮影が一時ストップするだとか、集音マイクがカメラフレームに入るのを避けようとしてカメラケーブルに突っ掛かってしまい、NGになるといったような彼女自身の責任ではないものばかりだったのだが、ユリアに関連した場面で撮影が止まってしまうことが多かった。
 そうなると、スタッフのほうでもユリアの場面でまた何か起るのではないかと神経過敏になるあまり、普段なら考えられないようなミスが起きたりした。
 こうしたことが積み重なって撮影時間は長くなり、深夜に及ぶことも珍しくはないハードなスケジュールになっていった。         

  *        *        *

「おつかれさま。明日の朝も早いわ。できるだけ睡眠をとって体調を整えておいてちょうだいね」
 ユリアを自宅マンション前まで送り届けたマネージャーの工藤が、あくびを噛み殺しながら、このところの決まり文句になっている事柄を口にした。
 実のところ工藤のほうがユリアよりも疲れていただろう。
 ユリアは放映開始とともに人気が出、それにともなって出演場面も当初の予定よりは増えていたし、彼女の人気にあやかろうという番組が入ったせいで、ちょっとしたレギュラーコーナーをもつようになっている。
 ドラマの撮影以外に雑誌社や新聞社の取材にも応じなくてはならない。そのうえユリアの送り迎えも工藤の役目だったから、いきおい睡眠時間と食事時間が削られて行く結果になった。
 いかに運転はオートシステムで、行き先をインプットすればいいだけであっても、マネージャーが車のなかで眠りこけているわけにはいかない。
(このところ、ゆっくり眠ったことがないわ)
 心のなかでそうつぶやくのも仕方のないことだろう。
 ユリアがマンションのエントランスを通過するのを見届けて、工藤は車をスタートさせた。プロダクションの社長からは
『部屋のなかに入るのを確認するまではお前の責任だ』と言われていたが、ユリアと工藤二人の暗黙の了解のうちに、送ってくるのはエントランスのところまでということになっていた。社長が『部屋に入るまで』と言うのは悪いムシがつくのを恐れるせいだったのだが、部屋に入るところまで確認したところで、そのあと何が起こるのかは神のみぞ知るというべきであろう。ユリアにしたところで、自分のために働いている工藤とはいえ、部屋のなかまでついてこられるのは嬉しいことではなかったし、工藤のほうには少しでも睡眠時間を確保したいという切実な理由があったのだ。
 ユリアは一度エレベーター・ホールのところまで足を運んだが、急に思い立って向きを変え、マンションの外に出た。
 電子ペット用のペットフード(ペットフードという名は付いていても動物に対するような餌ではなく、バッテリーに近いかたちのもの)を買いに行こうと思ったのである。買い置きはまだ少々あるが、ペットの好き嫌いを考えると少し多めに買っておいたほうが安心できる。
(いつものコンビニでいいわ)
 道路を挟んで向い側に立っているコンビニエンス・ストアは、ユリアが時々利用する店で、こういう種類の店としては規模も大きく、品揃えも豊富である。それに、デビュー後も淡々とした対応なのが嬉しかった。
 ユリアは信号を見た。
 信号は、あと2秒ほどでWalkからStopに変わろうとするところだった。
(走っちゃえ)
 彼女は駆け出した。
 その足もとに黒い影が走った。
 姿勢を低くした黒ヒョウが疾駆するように。
「危ない!」
 誰かが叫んだ。
 瞬間、ユリアの身体は空中高く舞い上げられ、そのまま路面に叩きつけられた。
 いちどきに血が吹き上がった。
 ユリアをはね上げた車の前部には何か仕掛けが施してあったらしい――衝撃が加わった瞬間に何枚かの鋭い刃が出て、ぶつかったものを切断してしまうような仕掛けが。
 ユリアは――ほんの一瞬前までは元気に笑い、しやべり、快活に動いていた彼女は首、胸、腹、下肢に分断されて物言わぬ物体に変じていた。
 凶器と化した車が自分のほうに向かってきているということにユリアは気付いていたのかどうか定かではない。彼女は自分の身に何が起こっているのかさえ理解していなかったかもしれない。切断されようとしているその瞬間にさえ。
 黒い影は、どこからともなく現われ、空中にかき消えるように姿を消していた。急制動をかけるような音もなければ、走り去る際に手掛かりになるような排気音もしなかった。もちろん、スリップ跡も残していない。まるで一陣の不吉な黒い風が吹き抜けたかのようだった。
 駆けていったのは、車ではなく、なにか得体の知れない動物だったのかもしれない。
 
 信号は変わったが、車は動き出さなかった。
 正確に言えば、動き出せなかったのだ。
 ドライバーにとっては、目の前でバラバラ死体になるような轢き逃げ事故を目撃してしまったショックも大きかった。
 そのまま発進してしまえば、自分もユリアの身体の一部を轢くことになってしまう。
 これが仮に犬や猫が轢かれたのであれば、できるだけその死骸に近寄らないようにしながら通行するのであろうが、路面に散らばっているのが人間の身体、それも、今、目の前で轢き殺されたものでは誰しも動くことはできない。
 それに、現場を保持する必要もある。もしかしたら、通行することで自分の車に何か犯人に結び付くものをくっつけてしまうかもしれないのだ。
 かすかに残っている犯人の痕跡を消してしまって、結果的に犯人を幇助することになってしまうかもしれない。
 
 動けなくなってしまった車の列の前を一人の青年が横切り、ユリアの――ついさっきまではエリアだったもののそばに膝をついた。
 長い黒髪、秀麗な白い横顔。ダークな色合いのジャケットとパンツ。 
 車のライトとコンビニエンス・ストアの電飾に浮び上がった姿は、なぜとは知らず夜の闇が凝って人の形をとったかのような印象を与えた。 それは、さきの黒い影の印象が強烈だったからかもしれないし、その人物自身にもどこか闇のような底知れなさがあるせいかもしれない。
 ほとんど同時に道路の反対側、コンビニエンス・ストアのほうからも別の青年が駆け寄った。
 金の髪。眼前の出来事に心を痛めているのが手に取るようにわかる表情。
 見る人によっては少し頼りないという印象をもつかもしれないが、彼はちゃんとした刑事・日本州警の警部補である。
 そこに現われたのは六道リィンだった。
「こんな……酷い……」
 言いながらリィンはユリアの目を閉ざしてやった。
 ユリアは目を大きく見開いたまま、こと切れていたのだ。
「リィン、久し振りですね」
 黒髪の青年が六道リィンに声を掛けた。
「ジョーカー……」
 全特捜司法官のトップに立つJOKERがそこにいた。
 JOKERの面には困惑と驚きが表われている。
「こんなところで会うとは……ここはリインのアパートからも近いんですよね。それを計算に入れておくべきでした。それと、あなたがテレビドラマ『特捜司法官S−A』を欠かさず見ているということも……」
「どうして……」
 リィンは言いかけて止めた。
 言わなくてもわかっている。表情が語っている。自分のところに遊びに来る途中だったわけではないと。任務中のジョーカーに出会ってしまったのだと。それもリィンにさえ明かすことのできない、というよりはリィンにだけは知られたくない任務の途中だったのだと。
 新人女優のユリアと特捜司法局とがどこでどう関連しているのか知りたいとも思うが、それを尋いてはいけないような気がしてリィンは口をつぐんでいた。
「すでにわかっていると思いますが、この件は特捜司法局の管轄下にはいります。ここで轢殺されたのはユリア・L・クラウディアによく似た別人です。ユリアは明日も元気でスタジオに現われます」
 ジョーカーはそれだけ言うとユリアの血を掬いとってなめた。
「金属の味がする」
 ジョーカーは表情を歪めた。
「でも……」
 リィンは口を開きかけて躊躇した。
 被害者がユリアだというのは、ドラマを見ている人間ならすぐにわかったはずだ。
(現に僕は一目でわかった)
 信号のところで停まっていた車のドライバー達は事故現場を目撃している。それらの人々の記憶から事件のことを消してしまうのは不可能だ。興奮して家に帰り、自分の目にしたことを家族に話して聞かせる者も出てくるだろう。それらの人々をジョーカーはどうするつもりなのか。
「この事故そのものは、ただちにニュースとして配信されます。目撃者全員の記憶を消すのは無理ですから」
リィンの心のうちを見透かしたようにジョーカーが言った。
「ですが、死亡者はユリアではありません。彼女は自分の部屋にいます。ここで死亡したのは、ユリアにきわめてよく似た、それでもじっくりと見比べてみれば別人だとわかる女性です。世の中には自分によく似た人間が三人はいるといいますからね」
 言葉の最後になってジョーカーは少しいたずらっぽい表情を浮かべた。それはリィンを安心させるためだったのかもしれない。
「目撃者の殆どは車のガラス越しに見ていたわけだし、二番目や三番目に並んでいた車の中からでは、細かな郡分までは見て取ることはできなかったでしょう。直接目撃したのは幸いなことにリィン、あなただけですから、あなたさえ黙っていて下されば大丈夫。それに人間というものはニュースを信じる生き物なんですよ、己の目で見たものよりもね。よく似た女性だと報道されれば、そうだったのかと納得することでしょう。事故のあともユリアがテレビに出演を続けていればなおのこと」
 そこまで言うとジョーカーは話を打ち切るようにリィンに背を向けた。


《χへの序曲〜定めの螺旋〜(3)へ続く》

back index next