先生、あのね… |
「●●市立T小学校・N分校勤務を命ず」 昭和40年・春 その辞令から私の教師としての生活がスタートした。 N分校は、僻地三級に指定された学校で、教師数6名。生徒数71名。 そのほかに事務一般および給食の世話を受け持つ女性1名からなる小さな学校で、大学を卒業したばかりの私に、はたして勤まるのだろうかという不安でいっぱいのスタートとなった。 三月の末、この先どうなることかとドキドキしながら赴任した私は、一年生の担任になる旨、告げられた。校長先生が六年生の担任も兼ねており、地元の出身だという男性が四年。二・三・五年生は、もう相当にベテランと呼んでもよいような先生方がそれぞれ担当していた。私は、新任ということもあり、新入生と一緒に学校に慣れてゆくのがよいだろうという配慮で一年生の担任と決まったようだった。 「出席をとりますから、名前を呼ばれた人は大きな声で『はい』とお返事してください。そしてお返事をしたら、前に出て釆てください。これからお勉強に使う教科書を配りますからね」 入学式をおえて教室に入った私は、保護者の前に立った自分をまるで子供のようだと感じながら、生徒たちに話しかけた。 しだいに生徒数が減少しつつあるこの分校では、今日入学するのは7人だけであった。 その7人の名を呼び、真新しい教科書を渡しながら (教科書が無償配布になってよかったなあ)と感じていた。 私が子供の頃、義務教育期間中の教科書でさえ、無償ではなかった。 豊かでない環境のなかで子供達を学校に行かせるには、まず教科書の入手が問題になるような時代だった。 とはいえ、当時でも裕福な家庭の子供もクラスには何人かおり、それらの子供達は、インクのにおいのするような教科書やページの白さが目に痛いほどのノートを持ってきているのだった。 そうでない大半の子供達にとって、その教科書やノートは、どれほどうらやましかったことだろう。自分の兄や姉からのおさがりの教科書を持ってくる子。近所の人から譲り受けたり、親戚の子供の使ったものを使っている子、何人もの手を経、丹念につくろわれたり、ちょっとした書き込みのあとが残っているものを、それでも誇らしげに机の上に並べる子。 そうしたなか、親が手作りした教科書を持ってくる子もいた。市販の教科書を買う経済的余裕がないのであった。そのため、教科書の内容を全て書き写したものを持ってきているのである。 そんな時代を経験している私にとっては、1年生に入学する時に皆が同じように新しい教科書で勉強を始めることができるのは、なんと素晴らしいのだろうと思わずにはいられない。 東京や大阪といった都会では、入学式にはかなり華美な装いで臨む子もいるようだが、この分校では、そういう子はいない。皆、さっぱりとしたものを着せてもらってはいるが、そしてまた、子供たちにとっては、いつもよりおめかししてもいるのだろうが、教室の後ろに並ぶ保護者ともども着飾っているようなものはいない。 だが、新入学の喜びや緊張が伝わってくる表情をしていた――実に生き生きとした表情。美しいというのではないが、「この子たちと一つずつ成長してゆこう」と思わせてくれる顔・顔・顔。 入学式からしばらくして、給食が始まった。 とはいっても、主食・副食・牛乳と揃った完全給食ではない。脱脂粉乳だけである。 子供たちは、学校でミルクを飲むと一旦自宅に帰り、昼食を済ませてまた学校に戻ってくるのである。 完全給食が実施されている学校も多いのだが、ここでは、まだミルクだけであった。 それには、給食設備の問題もあっただろうが、おもに父兄の経済的負担がその理由になっていた。完全給食にした場合、その給食費を払いきれない家庭が多いのではないか、と懸念されたのである。 前年には、東京でオリンピックが開催され、経済はめざましい高度成長をみせてはいたが、それらの波もこの小さな村には及んでいないようである。 それでも、子供たちは、ミルクだけの給食ではあっても、給食の時間を心待ちにしている。 4限目の授業中、プンと漂ってくるミルクの香りに 「先生、早く給食にしよう」と言い出す子もいる。 匂いに刺激されておなかが鳴り、隣の席の子に笑われている子の姿を見受ける時もある。 そして、いよいよ給食の時間ともなれば、我先にと駆け寄り、何の味もないミルクをおいしそうにゴクゴクと音をたてて飲む子。一気に飲む子。少しでも長引かせようと一口づつ飲む子。給食の時間は、なによりも彼らの楽しいひとときであった。 私にとっては、子供たちの性格を覚えること、各科目の教案を考え、教具を準備する慌ただしさのうちに、またたく間に一ヶ月が過ぎた。 そして、5月の第2週、家庭訪問の日が来た。 この日、授業は午前中で終わり、子供たちは先に帰宅していた。 私は、学校で昼食を済ませると最初の訪問先である田中君子の家へと向かった。 君子は、私の姿に気づき、家から飛び出してきた。 「先生、今日のお昼はね、黄な粉ご飯なんだよ。食べていってよ。いつもはね、ごはんだけでおかずがないよ。でも、黄な粉があるとおいしいよ。先生も食べて行ってよ」 口のまわりに黄な粉をつけて嬉しそうに話し掛けてくれる。 その言葉を耳にした瞬間、ふいに周囲の風景がにじんだ。 「あれっ、先生どうしたの?」 君子は私の顔を覗き込むようにして尋ねた。 「何でもないのよ」 私は慌てて答えると明るく言葉を続けた。 「君子ちゃん、今日は黄な粉ご飯でよかったね。先生はもう学校でお昼を済ませてきたから、今はおなかがいっぱいなの。先生は君子ちゃんのやさしい気持ちだけで充分うれしいのよ。ありがとう。君子ちゃんはまだお昼ご飯の途中だったんでしょ。おうちに戻って食べていらっしゃい」 その言葉にまた元気よく駆け出してゆく君子の後姿を見ながら、今日のことを忘れることはないだろうと感じていた。 |