約束

「嵐山に行く」
 ある秋の日、父が言い出した。
「紅葉の季節になったら、行こう」と母に約束していたから、と。
 その年の夏に、母は他界していたのだが、まだ存命だった時に、そう約束したのだという。
 それは、余命3ヶ月と医師から宣告されていた母に、少しでも長く生きてもらいたいという願いだったろう――桜の季節に紅葉の約束をすることで、命をつなぐことができれば……という。

 夏の盛りに母はこの世を去り、果たせぬ約束だけが残った。
 すでに相手のいなくなった約束だけれど、それは、果たすために存在するのだと。
 
 父と私は母の写真を携えて京都へと向かった。
 その日も翌日も、空はみごとに晴れ上がっており、観光シーズンまっただなかということも手伝って、たくさんの人で賑わっていた。
 その秋は、例年よりも紅葉が遅く、嵐山はまだ緑のほうが多かったが、渡月橋からの眺めを母にも見てもらった。
 その間、私達は無言だった。
 私は、何を言えばいいのかわからずに……
 父は――父は、たぶん会話していたのだろう、この世ならぬ人と。
 その時、父が語りかけた言葉が何だったのか。
 写真を連れてくることしかできなかった無念を訴えていたか。
 心の中で生きる人に次の約束をしたか。
 私には、どんな会話が交わされていたのか知る術はなかった。
 無言の横顔にかけるべき言葉もなかった。

 
 ややあって、父は、母と「一緒」に来た記念にと写真におさまった――遺影を手にした姿で。


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